- 吉原の歴史アラカルト
江戸の狂歌四天王のひとり、宿屋飯盛(やどやめしもり)またの名を石川雅望あるいは六樹園が吉原遊郭にちなんだ狂歌を集め、吉原の一日を追った「吉原十二時」を著している。当時の時刻は十二支であらわされ、ここでは卯の刻(明け六つ、今の午前6時頃)から始まる。
卯の刻(午前6時頃)
喜多川 歌麿|青楼十二時 卯ノ刻Hour of the Hare (U no koku), from the series “The Twelve Hours in Yoshiwara” (“Seiro juni toki tsuzuki”)Kitagawa Utamaro,1789–1799. The Art Institute of Chicago.
浅草寺の鐘が明け六つを打ち、朝帰りの客が吉原の門をでていく、ちょっとアンニュイな雰囲気を狂歌に・・・・
吉原に一夜あかしの朝がへり 猪牙のふとんも島かくれ行く
*猪牙:ちょき、二、三人乗りの送迎の船「猪牙船」。船の創案者長吉の名が訛ったとか、舳先が猪の牙に似ているところからこう呼ばれたと言われる。
辰の刻(午前8時頃)
喜多川 歌麿|青楼十二時 辰ノ刻Hour of the Dragon (Tatsu no koku), from the series “Twelve Hours in Yoshiwara (Seiro juni toki tsuzuki)”Kitagawa Utamaro,1789–1799. The Art Institute of Chicago.
この頃にはおおかた客は帰っているが、中には居続け客もいた。又、廓で働くひとびとの生活も始まる。
傾城のはれの衣装を辰の刻 お針も見ゆる松葉屋の内*お針:吉原で働く裁縫女のこと。一般の家ではお針とは言わず「針妙」といった。
巳の刻(午前10時頃)
喜多川 ...
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江戸時代の文化も宝暦の頃から当時の文化圏の上方からはっきりと中心が江戸に移ってきた。
その中から庶民の文化文芸のひとつとして愛されたのが「笑話」「軽口噺」ともいわれた「小噺」。(もとは中国からやってきた)この小噺は、今のショートコントに通じる面白さがある。
「燈篭見物」
喜多川歌麿 青楼絵抄年中行事より引用:国立国会図書館デジタルコレクション
玉菊の供養は年々賑やかになり、吉原の秋の行事として欠かせないものになった。
妓楼を抜け出して、燈篭見物に行った田舎者が、見物から帰ってきたが同じ造りの妓楼がずらりと並んでいるので、自分が上がっていた妓楼がどれだかわからず困っていた。
それでも、わずかな記憶をたよりに、一軒一軒捜し歩くうちにやっとそれらしい妓楼を見つけ出した。そこで、中の若い者を呼んで、
「ここの客で、燈篭見物に出かけてまだ帰って来ていない客はいないかね?」と尋ねると、
「1人おいでになりますが、まだお帰りになっておりません」というので、田舎者は真剣な顔で、
「よーく俺の顔を見てくれ。ひょっとしたらその客、俺と違うか?」
川添 裕著「江戸の見世物」(岩波新書)より抜粋
「天神様の配流」
天神様は、大宰府天満宮、北野天満宮などの祭神で、平安時代、時の権力者藤原時平の策謀により九州の大宰府に配流になった菅原道真をいう。学問の神様として有名。
吉原通いにうつつを抜かす宗匠(文化、芸能の道の師匠)が、遊びの度が過ぎて、片っ端から家財道具を質に入れ、家の中は空き家同然、金目の物は何一つ残っていない。
ただこれだけは、と最後まで大事に取って置いた探幽(江戸初期の有名画家狩野探幽のこと)の描いた天神さまの掛け軸の前に座り、「ちょっとした気の迷いで、吉原の女狐に魂を奪われ、ご覧の通り家の中は空き家同然のがらんどう。
毎日、さぞ寂しい思いをしていらっしゃることでしょうから、今日からはしばらくの間、賑やかな質屋の倉にお移りくださいませ」と言って、ふと見ると掛け軸の中の天神さまが、目に一杯の涙をためていらっしゃるので、
「これはまた、どうしてお泣きなさるのですか?」と聞くと、天神さま、顔をくもらせて、「またしても流されるのであろうか・・・・」
出典:江戸諷詠散歩(秋山忠彌著) 文春新書
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歌川国貞(二代) 風流/生人形 国芳国貞錦絵より引用:国立国会図書館デジタルコレクション
浅草近辺は一大遊楽地である。以前紹介した吉原と歌舞伎に加えいろいろの見世物小屋も多数出現した。その中で人気見世物の一つが「生人形(いきにんぎょう)」である。
生人形とは、その字の通り生きているようにリアルな等身大の人形で、安政年間から明治の半ばまで盛んに作られた。人気の伝承物語を人形で再現するわけだが、その規模も人気とともに大きくなる。
安政三年、安政の大地震での復興のさなか、歌舞伎小屋などに先駆けて開催された浅草奥山の若宮稲荷前の小屋は、間口13間(23.6m)、奥行14間(25.4m)と、かなりの規模である。人形の数は、62又は72体と伝えられる。
そして、テーマも複数用意し、さらに複数の場面設定をしたものもある。「近江お兼」「浅茅ヶ原一ツ家」「為朝島廻り」「粂の仙人」「水滸伝豪傑」「吉原仮宅」「忠臣蔵討入」「鏡山竹刀打」「小糸・佐七」など木戸銭は32文だが、テーマ変りで2ヶ所ほど中銭16文も取ったので全部で64文と結構高い。それでも、震災のあと娯楽をもとめる人で満員札止めが続き、初日の上がりが百両、以降も平均七十両と大変な売上となった。(当時大当たりの歌舞伎でも五十九両ぐらいであり、けた違いである)
入場数を平均七十両で計算すると、日に7千人入場し、1ヶ月21万人、売上二千百両となる。当然1ヶ月どころか半年にわたるロングランと、大変な興行である。
ところで、この生人形の魅力はそのリアルさ。場面構図の面白さや、衣装の華やかさなど演出は多彩だが、なかでも重要なのは生きているような人の肌を再現することだろう。そこに製作者の腕が問われる。
先のテーマの中の「吉原仮宅」がいい例で、「内証」という場面で上がり客でも見たことがない花魁の身支度の様子を覗き見るような構図がある。
佐野槌屋で有名な遊女黛(まゆずみ)が上半身あらわに鏡の前で化粧する姿が再現されている。アップでみたい客の為に、遠眼鏡が四文で貸し出されていたとのこと、当時も今ものぞき趣味は変わらない。人形の基本素材は桐で、各パーツを作り、肌の感じを出す為、胡粉(貝殻を焼いて作った白色粉末)を溶かし肉色に仕上げ、霧吹きのように蒔くと、自然な人肌が再現されたとの事。
さて、なぜこのテーマに黛が採用されたかということだが、確かに売れっ子であったが他にも売れっ子は多数いた。実は、大震災の際、吉原も(自分も)罹災したにもかかわらず、高価な持ち物をかたに借受した金三十両を出して御救小屋への大量炊き出し鍋を寄贈した、その行為に北町奉行所から感謝の褒美を賜って話題になった後だったというわけである。
当時大変評判になったニュースをいち早く取り入れたところにこの生人形の人気の秘密がかくされているのだろう。
川添 裕著「江戸の見世物」(岩波新書)より抜粋
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新吉原の遊女のトップランクは太夫であり、つぎに格子女郎でしたが前にも触れたように宝暦(1751~1764年)頃には消えてなくなり、代わって「昼三」が上級遊女として登場します。
丁子屋畧見世|鳥高斎栄昌引用:メトロポリタン美術館
昼三
昼三の中での最高級が「呼び出し」といわれる昼三で、金一両一分張見世はせず、茶屋で待ち花魁道中をする。
付き添いとして、1~3人の番頭新造、2~3人の振袖新造、2人の禿(かむろ)いろいろと身の回りの用事をします。新造がつかない昼三クラスで 金三分新造つき昼夜金三分(夜だけ金一分二朱)がありました。
但し、以上のランクも呼び出しが文政(1818~1830年)頃にはなくなり、その次の昼三も弘化4年(1847年)になくなり、さらにランクが下がっていきます。
附け廻し
「昼二」とも言われます。金二分
座敷持
昼夜金二分と金一分の2種類がありました。自分の部屋を持ち、別に客を迎える座敷を持つ遊女です。
部屋持
昼夜金二分と金一分の2種類がありました。自分の部屋に客を迎えます。
振袖新造
基本的には、客をとりません。金二朱但し、客の求めで客をとる新造もいたようです。
局女郎
一ト切(きれ)すなわち約十分の間に用を済ませるので「切見世」ともいわれます。一ト切 五十文~百文
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青楼絵抄年中行事より|喜多川歌麿引用:メトロポリタン美術館
かむろ、かぶろ(禿)
7、8歳で遊女屋に売られてきた者で、花魁など遊女の食事、茶、煙草といった身の回りの雑用をした。衣装などその費用は、すべて遊女が負担した。
かむろには、そのスタイルで呼びかたがいろいろあり・・・髪を垂らし、前髪をおかっぱにしたかむろを「切禿」、頭のてっぺんだけ髪をのこしたかむろを「けし禿」、坊主頭を「坊主禿」などとよばれていた。
器量の良い男の子を「若衆禿」として道中などに連れて出たこともあったらしい。又、将来の花魁として素質のあるかむろを「引込禿」といい、店には出さず行儀作法や芸事を仕込み、大事に育てた。
ばんとうしんぞう(番頭新造)
遊女で年季が明けても身を寄せるところのなく、そのまま楼主と契約して、住み込みで花魁などの高級遊女の番頭的な仕事をした。
初会の客には、まず茶屋へ1人で行って品定めをして帰り遊女に報告したり、酒宴の席でも花魁と客に気を配り、如才ない取り持ちをしたり、裏から馴染みにすることや紋日の無心などの駆け引きなどいろいろな指導した。
客はとらず、遊女としての豊富な経験を最大限に活かし、あくまで店の番頭として働いた。
ばんとう(番頭)
番頭は、、金の出納、物品の買入れや使用人の監督管理など帳場を一手に預かっていた。帳場は客の出入りする上がり口階段の正面にあったので、客の品定めなどもしていた。
女芸者
女芸者は、色を売らずに芸を売るのが建前。三味線などの芸を見せるので、三味線芸者の名もあった。
男芸者
俗に、「太鼓持ち」。
昔は専業ではなく役者などが入って、芸を見せていたが文化の頃から専業が現れ、吉原に住み、検番に席を置いていた。太鼓や三味線から俳諧、茶の湯、生け花など多芸に通じていた。
せげん(女衒)
遊女屋へ娘の売買を周旋したり、場合によっては誘拐してきた。多くは山谷に住み、地方の手下が手に入れた娘をまとめ、遊女屋に売り込んだ。
つけうま(付馬)
付馬を出すのは馬屋で、遊女屋から不払いの客の取立てを請け負った。
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青楼絵抄年中行事より|喜多川歌麿引用:メトロポリタン美術館
演ヤ魁は、お国なまりを消すために、廓独自の「ザマス」「クンナマシ」など「アリンス言葉」を使った。「天狗の鼻」という小噺にも「アリンス言葉」が効果的に使われている。
「天狗の鼻」
えー、吉原にまだ張り見世てえのがあった時分・・・・格子の向こうに、花魁がズラリならんでいる。そいつを、ひやかしの客が格子のこっちから
「どうでえ、いい妓(おんな)だなァ」「おめえ、どれを買いてえ?」「ウン、俺ァ、五人ならんでいる、上から三人目がいいなァ」「おらァ違うな、下から三人目だ」「それじゃァ、おんなじ妓じゃァねえか」
なんてなァことをいいながら、ゾロゾロとひやかして歩いている。
天狗がナ「吉原てえなァ、面白そうなとこだ。俺も一度出かけてみよう」てんでネ、人間の真似ェして、吉原へひやかしに来て、格子の間から鼻を出して、のぞき込んでいると、花魁の中に目の近いのがいて、「ちょいとォ、主、抜きなんし、ここははばかり(便所)と違うよ」
「天狗の鼻」は、ナニを想像させるのは、江戸時代も同じで、前の小噺に似た小噺をもう一話紹介しよう。
「抜きなんし」
えー、大文字楼・・・・吉原の大店の中でも屈指の見世でございます。こういうところは、引手茶屋からお客が送り込まれて参りますから。花魁衆が張り見世なんぞ張る必要はない。
そろそろ、客を迎える時刻ですからナ、花魁衆が湯から上がってもろ肌ァ脱いで、ふくよかな胸のふくらみなんぞ丸出しにして、顔から襟元ンところに、白粉をぬっていまお化粧の真っ最中・・・・。
実にどうも、例えようもないあでやかさでございます。
ちょうどその時、天狗がナ、「飛行の術」というのを使って空の上を飛んできた。廓の上へ来てちょいと下界をのぞくていと、その光景ですからたまりません。
クラクラッとした拍子に術なんぞ忘れてしまってドシーン!落ちたところが大文字の庭でナ。築山の所にあのグーッと大きな長い鼻がブスッと突き刺さった。
さァ、もがいたって抜けるもんじゃない。見世中は大騒ぎで、若い衆なんぞも気の毒がって、寄ってたかって手助けするがダメ。
その時、化粧をし終えたのがひとりの花魁で、さすがにお職の貫禄でございます、人を制しておいて、庭下駄ァつっかけてゆっくりそばへ寄り、懐中から桜紙を出してナ、天狗の鼻ンところをヒョイとつまんで、・・・・「さア、主、抜きなンし」
「屁のあと先」
えー、ある花魁が客と寝ているうちに、プーと漏らす。客が気が付かねばよいがと、心配です。こういうときのお客なんぞ、寝ているようでも起きているもので、
花魁「あんた、ちょいと起きてくんなまし」客「なんだえ」花魁「いまのアレ・・・・気が付きませんでしたか」客「いまのアレって・・・・・」花魁「あの、大きな・・・・・」客「大きなって?」花魁、困りましてナ、花魁「ええ、大きな地震を、さ」客「地震だと。してそれは屁の前かえ、あとかえ」
「野暮天」(やぼてん)
「おう留ェ、俺ァゆんべ、吉原に行って来た」「ほう、そいつァ豪勢だ。して首尾は?」「それが、深川八幡の力石(ちからいし)よ」「なんだい、その深川八幡の力石てえのは?」「てんで、持てやしねえ」「そりゃァおめえ、大方、女房ッ子のあるふりで行ったろう」
「あァ、向こうへ行って、登楼(あが)ってナ、妓(おんな)が“おまえさん、おかみさんあるんだろう”て、きくからな、俺ァ正直によ“あァ、いい嬶(かか)ァだが、ここンとこ、障り(さかり・・月のもの)だから、しょうがねえ“って、言ってやった」
「馬鹿だな、てめえは!正直すぎらァな。そんなこと言って、モテるわけがねえじゃァねえか。こんど行くときァな、少しァオツななりして、ひげでもあたってよ、独りもんというふれ込みで行かなきゃァ、振られるなァあた棒よ」
「そうかい、そう言われりゃァ、そうに違いねえ。ゆンべの分を、今夜取り戻そう」
てんで、日の暮れるのを待ちかねて、熊さんはまた出かけた。土手八丁から見返り柳、そこからトロトロと下ったところが五丁町、大門をくぐるてえと、まっづぐに仲之町、遊女三千人が不夜城を誇る吉原でございます。よしゃァいいのに熊公は、
「おーッ、女房はねえぞ!俺ァひとり者だぞォ!」
てんで、大きな声をはりあげて、江戸一(江戸町一丁目)から江戸二、揚屋町から角町、京一(京町一丁目)から京二、水道尻から河岸見世まで、自分を売り込んで歩く。これじゃァ、袖を引っ張る物好きな妓も、いやァしません。
「やァい、俺ァ、女房はねえぞ!」って、吉原中をふた回りして、足を棒にして、もう引けどき(十二時)すぎ、お茶ァひいている(売れ残った)女郎をつかまえて、
「俺ァ、女房はいねえ!」「おォ、こわ!」「子は、なおいねえ」
*深川八幡の力石:近くの佐賀町あたりの力持ちが、大きな丸い石を抱え上げ、力を競ったもので、今も八幡宮境内に「力持碑」とその力石がある。
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江戸高名会亭尽 深川八幡前|歌川広重引用:国立国会図書館デジタルコレクション
公娼の代表「吉原」を脅かす存在が、江戸の各地に生まれた私娼でした。
私娼は、隠れ遊女として岡場所とよばれる町を形成し、踊り子、綿摘(わたつみ)、お目見え奉公人、湯女、三味線の師匠、宿場女郎(飯盛女)などを隠れ蓑に営業していました。たびたび、吉原の陳情で奉行所が私娼狩りをするのですが、消えては生まれのイタチゴッコです。
ところで、この岡場所の繁盛の裏には、何と言っても吉原の格式、しきたりなど敷居の高さが影響しており、岡場所のしきたりなど気にせず、気楽に遊べるところにあったのではないでしょうか。
この岡場所は、江戸後期になると根津、深川など30数箇所にのぼりました。中でも深川の辰巳芸者は有名です。(深川七場所:仲町、大小新地、表裏櫓、裾継、新古石場、向土橋、土橋)宿場女郎(飯盛女)については、江戸の玄関口江戸四宿を中心に栄ました。(江戸四宿:品川、新宿、千住、板橋)享保7年(1722年)の品川宿には、旅籠屋が94軒で、飯盛女が500人と記録されています。
湯女は、その名の通り当時の風呂屋に抱えられている遊女で、市中の風呂屋の繁盛とともに増えていきますが、新吉原に代わる際の奉行所の摘発で多くが新吉原に吸収されてしまいます。
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吉原地震焼亡之図 – 江戸大地震之絵図より引用:国立国会図書館デジタルコレクション
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれてますが、とくに火事は多かったし木造で密集していますから大きな被害になりました。吉原も、多くの火事に見舞われています。新吉原になるきっかけも火事でした。
●元吉原時代(元和元年1617年~明暦3年1657年)・寛永7年(1630)、17年(1640)・正保2年(1645)全焼・承応3年(1654)・明暦3年(1657)
●新吉原時代(明暦3年1657年~慶応2年1866年)・延宝4年(1676)全焼・明和5年(1768)全焼、8年(1671)全焼、9年(1672)全焼・天明元年(1781)、4年(1784)全焼、7年(1787)全焼・寛政6年(1794)全焼、12年(1800)・文化9年(1812)全焼、12年(1816)・文政7年(1824)全焼・天保6年(1835)全焼、8年(1837)全焼・弘化2年(1845)全焼、3年(1846)全焼・安政2年(1855)全焼・万延元年(1860)全焼・文久2年(1862)全焼、4年(1864)仮宅全焼・慶応2年(1866)仮宅全焼
ご覧のように、250年の間に27回、約9年半に1回、当時の寿命で1人一生に3~4回は火事に遭うというわけです。
ところで、多くの楼主は、火事の際その被害状況にもよりますが、大火と思ったら消火どころか、家財道具を運び出し避難するとともに、仮宅探しに奔走しています。
それは火事での損害をいち早く取り戻すには良い場所に仮宅を借りて、素早く営業する必要があったからなのです。素早い楼主では、「焼け肥り」さえしたといわれています。
新吉原仮宅之図|喜多川歌麿引用:メトロポリタン美術館
仮宅は、吉原からほど近い浅草、本所、深川、両国などの料理茶屋や民家を借りて営業しました。案外こちらの方が繁盛したといわれています。なぜなら、吉原の格式など敷居の高さが払われ誰でも気安く遊べたからです。(吉原も後期はそうなりました)仮宅の場所としては、もともと岡場所として栄えていたのでライバルの地域での同居という皮肉となりました。
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万治・寛文の頃(1661年〜1673年)
新吉原になって間もなくの頃、火事が多く、町火消しや定火消しが設けられた。この頃の遊女は、後期に比べれば大変地味で、櫛やかんざしもさしていない。
ここでは当時の遊女の最高位松の位遊女が描かれているが、松の位の遊女「仙台高尾」は巷談の吊るし斬りで有名になった。髪型は「立兵庫」が主流、右端の絵は、くくり枕を着けている。
元禄の頃(1688年〜1704年)
犬公方綱吉でよく知られるこの時代は、江戸文化がもっとも成熟した時代でもある。赤穂浪士の討ち入りもこの時代。
当時の遊女の外出姿だが、右から新造、小紫、新造、禿(かむろ)、遺手(やりて)、若い者と続く。足元は草履、小紫の髪型は兵庫髷、新造は玉結び、禿は奴島田。当時の遊女は、外出のとき仕掛け(打掛け)の上から帯をしており、後の花魁道中のような礼装ではなく常着だった。
正徳の頃(1711年〜1716年)
綱吉から2代後、家継の時代。大奥の大事件「絵島・生島事件」が起きている。
この時代頃は、既に髪に櫛をさしており、髪型は古来兵庫、勝山髷、島田髷などが多く、帯も前帯びになる。ちなみに勝山髷は、遊女「勝山太夫」があみだしたもので、のちに丸髷に発展してゆく。
享保の頃(1716年〜1736年)
将軍吉宗、大岡越前、水野忠之の「享保の改革」などで元禄時代とともによく知られた時代。この時代の遊女の風俗も、正徳の頃から5年でありとさほど変わらない。
髪には櫛一枚と小さな笄(こうがい)をつけている。腰巻きは以前は白でしたが、後世は必ず赤い腰巻きをした。
延享の頃(1744年〜1748年)
享保から10年、時代は吉宗から家重の時代である。この頃には、遊女の風俗にも変化が生まれてくる。・襟元がゆったりして裾も長い。・引き袖になってなっており、帯幅も広い。・櫛のほかに簪(かんざし)も見える。
寛延の頃(1748年〜1751年)
この頃には後の花魁のイメージに近くなる。髪は兵庫、笄、櫛、大ぶりの簪などが見える。髱(つと)がより水平になり、襟先が男襟に似ている。履物も、草履ではなく黒塗りの三つ歯の表付きの下駄で、後期のものより低い。
宝暦の頃(1751年〜1764年)
将軍吉宗が死去、家治の時代となるが早世する。この頃になると髷は兵庫から島田になり、櫛・かんざしのさす数が増えてくる。
衣装も衣装全体に入る大柄な絵柄から、小さな模様を点在させるデザインに変化、シンプルな感じとなる。この時代で最高級の遊女「太夫」がなくなる。
安永の頃(1772年〜1781年)
賄賂の代名詞のようにいわれた田沼意次の時代となる。この頃から衣装が、後期のスタイルに変化していく。
襟ぐりがぐっと後ろに出て、後の「つき襟」に近くなる。2人のかむろは、髷が奴島田に近くなり、帯が矢の字に結ぶなど後世と同じになっている。
天明の頃(1781年〜1789年)
田沼意次が失脚し、松平定信の時代になるが、世の中は天災による不幸が続く。
・・・・・天明の大飢饉、疫病の流行、浅間山の大噴火など絵の中央が当時の花魁で、髷は立兵庫に櫛を3枚、かんざしを前に5本、後ろに4本と豪華になる。びんは「張り出し灯篭びん」で、鯨かべっ甲の髷差し棒で張りを作っている。
寛政の頃(1789年~1801年)
ぜいたく品の禁止令や私娼禁止令が出る。相撲人気の中、小野川、谷風が横綱になる。
この頃の髷は横兵庫、丸髷、天神髷、そして島田髷と種類も豊富になる。髪飾りがさびしい感じがするが、やはり先の禁止令の影響か?
文化の頃(1804年~1818年)
式亭三馬「浮世風呂」、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」を著す。この頃には、芝居に出てくる揚巻の姿に近くなる。
櫛は大形2枚に、前ざし6本,後ざし8本と華やか。髷は島田で、仕掛けは3枚、帯は本帯で両端を長く下げている。
文政の頃(1818年~1830年)
「東海道四谷怪談」上演。異国船打払い令が出る。この絵は、「助六由縁江戸桜」の揚巻。芝居では、揚巻は太夫だがこの姿は、呼出し昼三クラス。ご覧のように、櫛も簪もどの時代のものより大きい。
出典:菱川師宣画「浮世続」(絵本)貞享元年
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青楼四季之詠「松葉屋内 市川」|清峰引用:Autumn (The Tanabata Festival): Ichikawa of the Matsubaya, from the series Songs of the Four Seasons in the Pleasure Quarters (Seirô shiki no uta)|Museum of Fine Arts, Boston
青楼四季之詠「京町壱丁目 つるや内 篠原」|清峰引用:Shinowara of the Tsuruya in Kyô-machi Itchôme, from the series Songs of the Four Seasons in the Pleasure Quarters (Seirô shiki no uta)|Museum of Fine ...