吉原「火の用心」

吉原地震焼亡之図 – 江戸大地震之絵図より
引用:国立国会図書館デジタルコレクション

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれてますが、とくに火事は多かったし木造で密集していますから大きな被害になりました。
吉原も、多くの火事に見舞われています。新吉原になるきっかけも火事でした。

●元吉原時代(元和元年1617年~明暦3年1657年)
・寛永7年(1630)、17年(1640)
・正保2年(1645)全焼
・承応3年(1654)
・明暦3年(1657)

●新吉原時代(明暦3年1657年~慶応2年1866年)
・延宝4年(1676)全焼
・明和5年(1768)全焼、8年(1671)全焼、9年(1672)全焼
・天明元年(1781)、4年(1784)全焼、7年(1787)全焼
・寛政6年(1794)全焼、12年(1800)
・文化9年(1812)全焼、12年(1816)
・文政7年(1824)全焼
・天保6年(1835)全焼、8年(1837)全焼
・弘化2年(1845)全焼、3年(1846)全焼
・安政2年(1855)全焼
・万延元年(1860)全焼
・文久2年(1862)全焼、4年(1864)仮宅全焼
・慶応2年(1866)仮宅全焼

ご覧のように、250年の間に27回、約9年半に1回、当時の寿命で1人一生に3~4回は火事に遭うというわけです。

ところで、多くの楼主は、火事の際その被害状況にもよりますが、大火と思ったら消火どころか、家財道具を運び出し避難するとともに、仮宅探しに奔走しています。

それは火事での損害をいち早く取り戻すには良い場所に仮宅を借りて、素早く営業する必要があったからなのです。
素早い楼主では、「焼け肥り」さえしたといわれています。

新吉原仮宅之図|喜多川歌麿
引用:メトロポリタン美術館

仮宅は、吉原からほど近い浅草、本所、深川、両国などの料理茶屋や民家を借りて営業しました。
案外こちらの方が繁盛したといわれています。
なぜなら、吉原の格式など敷居の高さが払われ誰でも気安く遊べたからです。(吉原も後期はそうなりました)
仮宅の場所としては、もともと岡場所として栄えていたのでライバルの地域での同居という皮肉となりました。