インテリを夢中にさせる遊女の風雅

江戸時代の吉原の遊女も花魁などランクの高い遊女の教養は相当なもので、当時の文化人がほれこみ、俳句や狂歌など風雅な交わりをもっていました。
とことんほれ込んで、身請けした文化人もいます。

遊女と言うと「家の犠牲で売られた」など不幸な運命をもった最下層の人と思われがちですが、たとえスタートがどうであれ、この世界で多くの遊び客を満足させるもてなしの業はすばらしく、妻に迎えても素人娘の及ぶところではありません。
期待に答えて円満な家庭を築き、家業を支える例が多数あるとの事です。

先哲像伝|大田南畝肖像
引用:国立国会図書館デジタルコレクション
長髦姿蛇柳|山東京伝肖像
引用:国立国会図書館デジタルコレクション

寛永の頃、当代随一の人気を誇る作歌山東京伝は、初婚の相手が「菊園」という遊女で、菊園が病死すると、後妻にも「玉の井」という遊女をもらってます。

もう一人、紹介しましょう。
狂歌の世界でその第一人者と言われた「蜀山人」こと大田南畝(おおたなんぽ)。
吉原でも大文字屋の主人加保茶元成が中心に狂歌の会がよく催されました。
南畝もよく招かれていたようで、そんな中、松葉屋の遊女三穂崎と知り合い一目惚れし身請けします。

南畝の狂歌を一句…

「全盛の君あればこそ此さとは花もよし原月もよし原」