• あじさい祭り浅草のイベント
    あじさい祭り
    あじさい祭りとは 浅草酉の市発祥のお寺として有名な「長國寺」で、毎年六月の中旬〜下旬に開催されるお祭りです。名称は、いきいきあじさい祭り。 期間中は、全国より集められた珍しい100種類のあじさいを楽しむことができ、さまざまなイベントが開催され毎年多くの人で賑わうお祭りです。 江戸時代後期のこと。 ある年、流行り病が蔓延し、苦しむ人が続出しました。見かねた幕府が、当時の長國寺住職に「悪病退散」の祈願を依頼し、やがて平穏な日々を取り戻すことができました。これを契機に、お寺では「門前市」開かれることとなりました。それがいつしか形を変え「あじさい祭り」として発展し、現在に至っています。 引用元:奥浅草観光協会「長國寺 あじさい祭り」リーフレットより 全国のお寺であじさい祭りは開催されておりますが、100種類以上ものあじさいを展示しているのは長國寺が唯一。あじさい図鑑は、人気のガクアジサイや、ピンクや紫、青などの色とりどりの珍しいあじさいが並び、とても見応えがあります。 あじさい図鑑で展示されているあじさいは、予約購入することが可能なので、珍しいあじさいを購入したい方はスタッフへ。展示期間が終了した後、受け取れるとのことです。 賞を受賞したあじさいは、本当に見事で多くの人が足を止めその美しさに見惚れております。 当日あじさいを購入できる、竹の吊り籠入りのあじさいは一鉢1,500円〜にて販売。吊り籠入は浅草だけの仕様でとても人気があります。 お祭りの期間中は、夏バテ防止の「薬膳きゅうり汁」が無料で提供されており、特注栽培された薬膳きゅうりを薬膳汁で炊いた温かい吸い物をいただくことができます。生姜が効いてとてもおいしいと評判で、薬膳きゅうり汁をいただくと夏本番前に体調をリセットできると言われております。 また、長國寺本堂では「ほうろく灸祈祷会」が行われております。ほうろく灸は、江戸時代の寛永4年から伝わる「無病息災・暑気払い(夏バテ)・頭痛封じ」の法で、昔からの健康法の一つとされおります。もぐさ灸を焚いた素焼きの皿「ほうろく」を頭にのせて受ける歴史あるご祈祷です。この祈祷を行う寺院はとても少なくなっており、貴重な体験ができる機会ともなっております。
  • 入谷朝顔市浅草のイベント
    入谷朝顔市
    入谷朝顔市とは 朝顔まつり(朝顔市)は毎年七月の六日から八日までの三日間開催します。この朝顔市と言いますのは、入谷鬼子母神を中心として、言問通りに百二十軒の朝顔業者と百軒の露店(縁日)が並び、毎年四十万人の人出で賑わいます。 入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政の頃です。最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。 そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。 なぜ入谷の朝顔がこんなに盛んになったのかと言いますと、入谷田圃の土が朝顔造りに適していたこともありますけれども、当時流行しました朝顔と言いますのは「変わり咲き」です。 この「変わり咲き」と言いますのは朝顔の花が、桔梗の花のように咲いたり、牡丹の花のように咲いたり、二重に咲いたりして、花粉の交配によって色々な花を咲かせる事ができたので、最盛期には一千種類もの朝顔があり、変化にとんだ花を咲かせ楽しませてくれてたのであります。 大変盛んに造られておりました入谷の朝顔も、世情が怪しくなって来ました大正二年意地づくで踏み留まっていた植松(植木屋)の廃業を最後に、とうとう入谷の地から姿を消してしまいます。それに伴い変化朝顔もいつしか人々から忘れられて現在のような円形の朝顔えとその主流は変わって行きます。 そしてそれから三十五年立ちました昭和二十三年、戦後のすさんだこの世の中を少しでも明るくしようと言うことで、地元有志の方と下谷観光連盟(昭和25年)の協力を得て、江戸情緒豊かな夏の風物詩、入谷の朝顔市が復活したのであります。 引用元:入谷朝顔まつり ホームページより
  • 浅草羽子板市浅草のイベント
    浅草羽子板市
    浅草羽子板市とは 毎年、12月の17日、18日、19日の3日間、台東区の浅草寺(観音様)の境内で羽子板市が開かれます。「市」とは、神社仏閣の縁の日、参詣人の集まる日に、近郷在住の人々が日常生活用品を商うために「市」が立ち、「歳の市」とはその歳の最後の市です。江戸の歳の市は浅草が最も古く、万治元年(1659年)両国橋が架けられた頃と言われています。 浅草の歳の市は、日常生活用品の他に新年を迎える正月用品が主になり、それに羽子板が加わり華やかさが人目をひくようになりました。その華やかさから押し絵羽子板が「市」の主要な商品となり、いつしか市が「羽子板市」といわれるようになり「人より始まり人に終わる」と言われるほどの賑わいとなりました。 暮れの17、18、19日、浅草観音様の境内に江戸時代のままの情景が展開します。通りから一段高く床を張ったにわか座敷店。飾り立てた羽子板は舞台より、一段といい男振りの役者の顔、顔、顔。仲見世から宝蔵門(仁王門)、観音堂まで境内いっぱいの人の波でこのときばかりは師走の寒さも和らぐようです。 江戸時代中頃には、当為全盛を極めた歌舞伎の人気役者の舞台姿を写した羽子板が市に並べられ、人々は自分の贔屓役者の羽子板を競って買い求め大変な人気でした。その年の人気役者の当り狂言や舞台姿を、競って求めるようになり、羽子板の売れ行きが人気のバロメーターともなりました。 羽子板が今日のように一般に売られるようになるまでは、「市」が唯一の商いの場でした。昔は師走の東京の各所に羽子板市が立ち、女性たちはひいき役者の当り狂言の羽子板を求め、ふところに抱いて帰りを急いだとのことです。 現在も「羽子板市」の当日は、浅草の仲見せ通りは大変な人出です。年の瀬の風物詩として、いつまでも大切にしたい日本人の心に残る行事のひとつです。 引用元:羽子板商組合ホームページより
  • 浅草サンバカーニバル浅草のイベント
    浅草サンバカーニバル
    浅草サンバカーニバル 浅草の夏を締めくくる「浅草サンバカーニバル」は、昭和56年の開始以来賑やかなことが大好きな浅草の皆さんに支えられてますます発展し、近頃は毎年50万人のお客様で賑わう一大イベントに成長いたしました。また、ブラジルのリオデジャネイロのカーニバルをお手本とする出場チームの努力により、北半球最大のサンバカーニバルと申しあげても過言ではない質を誇ります。ただのパレードではない真剣勝負のコンテストもみどころです。 浅草はかつて映画館や演芸など娯楽の一大中心地として名を馳せたが、昭和30〜40年代にはすでに街の活気が下火になりつつあった。これを案じた当時の台東区長である内山榮一と浅草喜劇出身俳優の伴淳三郎の発案により1981年に初めて実施されたといわれる。 1981年開催当初の浅草サンバカーニバルは、現在のように本格的なサンバチームは少なかった。また近年に至っても、サンバの様式とは異なるチームも多く出場していた。また審査もコシノジュンコや池田満寿夫、Balança(サンババンド)のDENなど著名人による審査委員長の意向が強く反映されていたといわれる。 しかし時代の変化に伴い、ブラジル本国のスタイルに則したチームが増えたことから、1999年には、S1リーグに出場するエスコーラによるAESA(浅草エスコーラ・ジ・サンバ協会)が発足、このAESAの提言により、現在は審査委員長に著名人を登用することは変わらずも、ブラジルやサンバに関心がある審査委員が選ばれ、これらの審査委員による点数による結果が大きく反映されるようになっている。 パレードは当初、夜間における開催が中心であったが、参加者や観客の安全上などの理由から、現在は昼に行われ夕方には終わるようになっている。 引用元:浅草サンバカーニバル実行委員会ホームページ引用元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  • 浅草酉の市浅草のイベント
    浅草酉の市
    鷲神社 鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社です。現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の例祭も現在は「酉の市(とりのいち)」として広く知られています。 社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました。天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。 後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となりました。 江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られていますが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日です。 酉の市とは 十一月酉の日の午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に始まり、終日お祭が執り行われます。十一月に酉の日が二回ある時は二の酉、三回は三の酉といわれます。 以前は、酉の祭(とりのまち)と呼ばれていましたが、次第に市の文字があてられてきました。祭に市が立ったのです。酉の市(酉の祭)は、鷲神社御祭神の御神慮を伺い、御神恩に感謝して、来る年の開運、授福、殖産、除災、商売繁昌をお祈りするお祭です。社号も昔は鷲大明神社と称していました。元来鷲大明神社の「大」は敬意、「明神」は神を奉る号です。 「東都歳時記」には、酉の日・酉の祭、下谷田甫鷲大明神社当社の賑へることは、今天保壬辰(1832)より凡そ六十余年以前よりの事、とあり、宝暦・明和年間(1750~60)にはすでに酉の祭は相当な賑わいで、それ以前から年中行事として行われていたことがわかります。 其角の句に「浅草田甫・酉の市」として、 春を待つ ことのはじめや 酉の市 とありますが、この句も霜月(11月)に入ってはじめての市立てであり、それだけ正月が近づいてきた高揚した気持ちを詠んでいるのでしょう。 これらの事からも酉の祭が長い歴史を持つ神祭であり、同時に多くの浮世絵が残されたことでも、年中行事として親しまれていたことがわかります。 引用元:浅草鷲神社ホームページより
  • 隅田川花火大会浅草のイベント
    隅田川花火大会
    引用元:隅田川花火大会 公式WEBサイト 川開き花火の由来 両国の川開きは、享保18年(1733)に川施餓鬼を目的としておこなわれたのが最初でした。隅田川の納涼は(1596~1614)に始まり、明暦の大火(1657)によって一時中断はしたものの、万治年間(1658~1660)に再び盛んに行われるようになりました。このころから納涼のかたわら花火を楽しむ風習が生まれたようです。 両国川開きのきっかけとなったのは、享保17年(1732)に起こった大ききんでした。この年は、西日本一帯にいなごの大群が発生するなど、例年にない凶作となり多数の餓死者がでました。更に、疫病が流行して多くの死者を出すなどさんざんな年でした。これを重くみた幕府(8代将軍吉宗)は翌18年(1733)5月28日(旧暦)その慰霊と悪病退散を祈って、隅田川において水神祭を挙行しました。この折、両国湖畔の料理屋が公許を得て、同日川施餓鬼を行い、花火を上げたといいます。 これが後年、川開きとして年中行事化されていきました。川開きは例年5月28日。この日から8月28日までの3ヵ月間は隅田川に涼み船を漕ぎ出すことが許可され、その初日に花火が上げられました。
  • 浅草ほおづき市浅草のイベント
    浅草ほおづき市
    四万六千日・ほおずき市 7月9日・10日、浅草寺境内を彩るほおずきの屋台は、浅草の夏の風物詩である。この両日は四万六千日の縁日であり、縁日にともなってほおずき市が催される。 四万六千日の縁日の参拝は江戸時代には定着し、われ先に参拝しようという気持ちから、前日9日から境内は参拝者で賑わうようになった。このため、9日、10日の両日が縁日とされ、現在に至る。 四万六千日にともなうほおずき市の起源は、明和年間(1764〜72)とされる。四万六千日の縁日は浅草寺にならって他の寺社でも行なわれるようになり、芝の愛宕神社では四万六千日の縁日にほおずきの市が立った。 「ほおずきの実を水で鵜呑み(丸飲み)すれば、大人は癪(なかなか治らない持病)を切り、子供は虫気(腹の中にいると考えられた虫による腹痛など)を去る」という民間信仰があり、ほおずきを求める人で賑わったそうである。その愛宕神社のほおずき市の影響を受け、四万六千日の大本である浅草寺にもほおずき市が立った。ちょうどお盆の季節でもあり、ほおずきを盆棚飾りに用いる方も多い。 かつては、四万六千日の縁日に赤とうもろこしを売る屋台もあった。これは赤とうもろこしが落雷除けのお守りになる由の民間信仰により、文化年間(1804〜18)頃に境内で売られるようになったという。ところが明治初年(1868)頃、不作によって赤とうもろこしが出回らないことがあった。これに困ったご信徒が浅草寺に雷除けのお守りを求めた縁から、浅草寺では竹串に挟んだ三角形の守護札を授与するようになった。これが今も四万六千日に授与されている雷除札である。 9日・10日の両日、いなせな恰好の売り子たちが声をあげてほおずきを売り、境内は朝から晩まで参拝者で埋まる。観世音菩薩の功徳に感謝して参拝し、ほおずき市を散策して江戸情緒を味わいたい。 引用元:あさくさかんのん浅草寺ホームページより
  • 三社祭浅草のイベント
    三社祭
    三社祭とは 浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に五月の第三金・土・日曜日に行われ、江戸風情を残しつつ勇壮且つ華やかな神輿渡御を主として、三日間に亘り約百八十万人の人出を数える日本を代表する祭礼の一つです。 江戸風情の残る下町浅草が1年でもっとも活気付くと云われ、東京の初夏を代表する風物詩の一つになっています。 初日は、お囃子屋台をはじめ鳶頭木遣りや浅草の各舞、また芸妓連の手古舞や組踊り等で編成された「大行列」が浅草の町に祭礼の始まりを告げ、東京都無形文化財指定の「神事びんざさら舞」も奉納されます。 二日目には、「例大祭式典」が斎行され、その後に「町内神輿連合渡御」によって浅草氏子四十四ヶ町の町内神輿約百基が神社境内に参集し、一基ずつお祓いを受けて各町会を渡御します。 二日目には、「例大祭式典」が斎行され、その後に「町内神輿連合渡御」によって浅草氏子四十四ヶ町の町内神輿約百基が神社境内に参集し、一基ずつお祓いを受けて各町会を渡御します。 最終日は、宮神輿三基「一之宮」「二之宮」「三之宮」の各町渡御として、早朝には神社境内から担ぎ出される「宮出し」が行われ、日中は氏子各町を三方面に分かれ渡御し、日没後に神社境内へ戻る「宮入り」を迎えて祭礼行事が終わります。期間中は浅草の街がお祭り一色に彩られ、神社では各神事が斎行されると共に、境内や神楽殿においても様々な舞踊が披露されます。 引用元:浅草神社ホームページより
  • 東京時代まつり浅草のイベント
    東京時代まつり
    東京時代まつりとは 11月3日文化の日、東京時代祭が開催されます。 このお祭りは、東京のあけぼの浅草寺の始まりから平安時代・江戸時代そして東京へと移りゆく文化をパレードで表現する一大歴史絵巻です。東京は太田道灌の江戸城構築から約545年、徳川家康の江戸城入府以来400年の歳月を数えますが、浅草はそれより古く、1400年近い昔(西暦628年)に隅田川からご示現した観音様がこの地に祀られてから浅草寺を中心とする独自の地域社会を形成し、特に江戸時代に入ってからは江戸の庶民文化の中心として栄えて来ました。東京の歴史と文化 の原点は浅草にあります。 東京時代まつり行列絵巻 1 東京時代まつり 18 花の吉原おいらん道中 2 奉行 19 大岡越前守と江戸町火消し 3 東京のあけぼの 浅草観音示現 20 浅草市村座七福神舞 4 浅草のよろこび 金龍の舞 21 猿若三座 江戸歌舞伎 5 在原業平 東下り 22 江戸の人気者 6 源頼朝 隅田川陣営 23 江戸芸者 7 北条政子 浅草寺参拝 24 火付盗賊改 長谷川平蔵 8 三社大権現祭礼 船渡御 25 副旗 9 副旗 26 奉行 10 奉行 27 黒船来航 浦賀奉行 11 江戸開祖 太田道灌 28 新撰組 12 徳川家康 江戸入府 29 第十五代将軍 徳川慶喜 13 大奥御殿女中 30 江戸から東京へ 14 徳川家光 三社権現社再建寄進 31 文明開化 鹿鳴館 15 参勤交代 大名行列 32 浅草奥山風景 16 元禄花見踊り 33 懐かしの浅草レビュー 17 義士討ち入り     パレードの地図 安らかなる都、東京のあけぼの 清き川より現れる観音像が、ここ浅草寺に祀られる。安らかなる都の物語はそこから始まる。源頼朝が、北条政子が、この地に祈る。やがて、この地が都となりゆくことを知らずに…。趣豊かな舞と神輿を語りべに、浅草の伝統芸能が、東京の文化の原点を時代に伝えます。 (1)東京時代祭本旗 (3)浅草観音示現 (4)金龍の舞 (6)源頼朝 葵三百年、碧よりあおし 太田道灌は、12世紀の豪族江戸氏の邸跡に、江戸城を築城します。それから約150年を経て徳川家康の江戸入府(天正18年・1590年)葵の紋章がこの地に植えた天下泰平の芽は、やがて鮮麗なる江戸文化んお華を咲かせます。 (8)三社大権現祭礼 (12)徳川家康 (15)大名行列 江戸文化の、夢舞台 (18)おいらん道中 (17)義士の討ち入り (19)江戸町火消し 力強き潮流、江戸から東京 江戸は東京へと衣替えし、やがて超近代的文化都市と称されるまでに発展していきます。そこに至るまでの段階を一つ一つ確かめる時、私たちは人の営みの力強さに目を見張ります。東京に住みゆく人々の活気と創造…。それこそがまさに華と呼ぶにふさわしいものなのです。 (31)文明開花 鹿嶋館 (32)浅草奥山風景 (33)懐かしの浅草レビュー