• 吉原遊女数調べ吉原の歴史アラカルト
    吉原遊女数調べ
    古代江戸繪集「新よし原尾州樓かり」|歌川国貞引用:国立国会図書館デジタルコレクション 江戸時代の吉原には妓楼がどれくらいあって、どれくらいの遊女がいたのか、大変興味深い。そんな折、講談社学術文庫で「吉原と島原」(小野武雄氏 著)の中に、そのデータを発見したのでここに紹介したい。 寛永年間 ※印本「あづま物語」(寛永十九年、1642年) 妓楼数:125軒  揚屋数:36軒遊女の数:987人※遊女の内訳は…太夫:75人 格子女郎:31人 端女郎:881人 明暦年間 ※明暦三年 中公新書「吉原」(石井良助氏 著)から遊女屋:103軒 揚屋:19軒 茶屋:18軒 万治元年(明暦三年の翌年)の「吉原細見図」「芳原細見」から遊女屋:253軒 揚屋:19軒 茶屋:18軒遊女の数:2208人※遊女の内訳は…太夫:3人 格子:67人 局:365人 散茶:669人 端:1104人※この年1年で遊女屋が倍増しているのは、ちょうど元吉原から新吉原に移る時で、風呂屋の湯女などが取締で吉原に移され膨らんだとのこと。 その後の遊女数を見てみると… 寛保三年 1743年 2084人 宝暦四年 1754年 2053人 明和五年 1764年 2205人 安永四年 1775年 2201人 安永七年 1778年 2242人 文化十三年 1816年 1966人 天保十一年 1840年 2335人 安政ニ年 1855年 3731人 慶応四年 1868年 3179人 ※元吉原時代から比べると新吉原の遊女の数は飛躍的に増えているが、その質となると低下し、太夫や格子が激減し最後にはなくなってしまう。
  • 歌舞伎と吉原・遊女吉原の歴史アラカルト
    歌舞伎と吉原・遊女
    踊形容江戸繪榮|三代目歌川豐國三代目歌川豐國 / Toyokuni Utagawa III, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で 歌舞伎の発祥についてはここでは詳しく触れませんが、出雲の阿国にはじまるといわれ、江戸歌舞伎については京の狂言師だった猿若勘三郎が芝居小屋を江戸に建て興行を始めたところからと言われています。(今銀座通り4丁目から京橋に向かったところに碑がある。) 興行は、当初江戸のいろいろな所で行われていました。吉原(元吉原)の廊の中でも行われたと言う記録が残っています。 吉原が新吉原になった頃には、中村座・市村座・山村座・森田座などが競い合い隆盛を極めます。(中村座と市村座は日本橋に、山村座と森田座は銀座、今の銀座歌舞伎座あたりで小屋を設けていました。) 尚、山村座は、生島江島事件で取り潰しになったので、中村座・市村座・森田座を江戸三座と言います。 その後、天保の改革期に歌舞伎なども管理しやすいように江戸の端に集めようとして選ばれたのが浅草寺の北側で今の浅草六区あたり、町名も猿若町となります。 これで吉原と歌舞伎の芝居小屋ができたのですから、浅草一角は一大遊興地となったわけです。 川柳には「浅草は意馬心猿の道と町」(浅草は、男の心を乱す吉原の馬道と女心を乱す芝居小屋の町)とあります。 助六由縁江戸桜|歌川国政引用:国立国会図書館デジタルコレクション さて、歌舞伎に登場する遊女の話に移りますと…花魁道中で良く知られる吉原のトップ遊女が登場するのが、「助六由縁江戸桜」の揚巻、「廊文章」の夕霧があげられます。 また、近松の名作「曽根崎心中」の主人公お初も大阪北新地の遊女です。
  • 江戸のフードファイト吉原の歴史アラカルト
    江戸のフードファイト
    日本橋魚市繁栄図|歌川国安Utagawa Kuniyasu (歌川 国安), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で 江戸時代にもフードファイトのイベントが盛んに行われていたようです。たとえば、文化14年(1817年)に両国柳橋の料理茶屋「万八楼」で大酒と大食いのイベントが行われています。酒組の優勝は芝口(新橋一丁目)の鯛屋利兵衛30歳で、3升入りの杯で6杯半、灼35リットルを飲み干しました。 菓子組の優勝は、神田の丸屋勘右衛門55歳で、饅頭50個、薄皮もち30個、羊羹7本を19杯のお茶とともに食べたとのことです。 飯組の優勝は、三河島の41歳三右衛門で、68杯をたいらげたそうです。又、浅草の和泉屋吉米兵衛は73歳の高齢にもかかわらず50杯を食べたとのことです。当時の平均寿命から考えると驚異的ですね。 そして蕎麦組は、池之橋仲町の山口屋吉兵衛38歳が、63杯で優勝、新吉原の桐屋五左衛門42才が50杯で2位だったということです。 出典:中江 克巳「お江戸の意外な生活事情」PHP文庫
  • 浅草寺裏、「新吉原」誕生吉原の歴史アラカルト
    浅草寺裏、「新吉原」誕生
    江戸高名会亭尽「浅草雷門前」|歌川広重引用:国立国会図書館デジタルコレクション 江戸の急激な発展は、葭の原っぱに誕生した元吉原を中心街にしてしまいます。当時の江戸は、おおざっぱにいうと今の東京の山手線内よりまだ狭い範囲と考えられるので、元吉原の存在は幕府にとって目障りになってきました。 明暦年間になるとたびたび所替えの話が持ち上がり、その返事を渋っていたのですが、そんな時思わぬ災害に見舞われます。振袖火事として知られる大火事で、吉原の町も焼け野が原となってしまいます。 幕府はこれを幸いに、5割増しの土地を提供するという色を付け、所替えを承諾させるわけです。江戸の隅っこに移されるわけですから候補の中から少しでも諸条件の良い所として選んだのが、浅草寺の裏手、今の吉原の地ということです。以後、こちらの吉原を「新吉原」といいます。 街づくりでは、基本的には元吉原に習っているのですが、5割増分を生かし、メインストリートに揚屋を集中させ、揚屋町をつくり、客の便宜を図ります。その後、新しい吉原も知れ渡り。万治年間ごろには大繁盛を迎えます。 そして、寛文年間、私娼取締りで検挙した私娼をこの吉原の奴女郎として収容するため伏見町、境町の2町が新しく生まれました。
  • 吉原の誕生吉原の歴史アラカルト
    吉原の誕生
    江戸名所図会「大門通」引用:国立国会図書館デジタルコレクション さて、歴史の話は「吉原の誕生」の時代です。 あの家康が駿河・遠江から移った時は、田舎も田舎の江戸。大大名に相応しい街づくりへエネルギッシュな建設が始まります。 当然、そうなると癒しの場が必要となるわけで、江戸の各地に徐々に遊女が増えてきます。そして、ついに徳川幕府が誕生すると、何せ幕府のお膝元ですから都市の拡大も急ピッチ、大名屋敷や商業施設がどんどんでき、遊女屋も移転させられたりと大変でした。 新添江戸之圖引用:国立国会図書館デジタルコレクション そこで一箇所に集まって町を作った方がいろいろと都合がいいと言うので遊女屋の主人、庄司甚右衛門が中心に幕府に掛け合いやっと許可されて生まれたのが「吉原」です。 場所は、今の人形町付近。当時はまだ葦の原っぱだったので「葭原」と呼ばれていたわけですが、縁起のいい名前にしたいと「吉原」となったようです。 この時代の吉原を「元吉原」と言います。街づくりの手本は、京都の島原。