遊女風俗変遷

万治・寛文の頃(1661年〜1673年)

新吉原になって間もなくの頃、火事が多く、町火消しや定火消しが設けられた。
この頃の遊女は、後期に比べれば大変地味で、櫛やかんざしもさしていない。

ここでは当時の遊女の最高位松の位遊女が描かれているが、松の位の遊女「仙台高尾」は巷談の吊るし斬りで有名になった。
髪型は「立兵庫」が主流、右端の絵は、くくり枕を着けている。

元禄の頃(1688年〜1704年)

犬公方綱吉でよく知られるこの時代は、江戸文化がもっとも成熟した時代でもある。
赤穂浪士の討ち入りもこの時代。

当時の遊女の外出姿だが、右から新造、小紫、新造、禿(かむろ)、遺手(やりて)、若い者と続く。
足元は草履、小紫の髪型は兵庫髷、新造は玉結び、禿は奴島田。
当時の遊女は、外出のとき仕掛け(打掛け)の上から帯をしており、後の花魁道中のような礼装ではなく常着だった。

正徳の頃(1711年〜1716年)

綱吉から2代後、家継の時代。大奥の大事件「絵島・生島事件」が起きている。

この時代頃は、既に髪に櫛をさしており、髪型は古来兵庫、勝山髷、島田髷などが多く、帯も前帯びになる。
ちなみに勝山髷は、遊女「勝山太夫」があみだしたもので、のちに丸髷に発展してゆく。

享保の頃(1716年〜1736年)

将軍吉宗、大岡越前、水野忠之の「享保の改革」などで元禄時代とともによく知られた時代。
この時代の遊女の風俗も、正徳の頃から5年でありとさほど変わらない。

髪には櫛一枚と小さな笄(こうがい)をつけている。
腰巻きは以前は白でしたが、後世は必ず赤い腰巻きをした。

延享の頃(1744年〜1748年)

享保から10年、時代は吉宗から家重の時代である。この頃には、遊女の風俗にも変化が生まれてくる。
・襟元がゆったりして裾も長い。
・引き袖になってなっており、帯幅も広い。
・櫛のほかに簪(かんざし)も見える。

寛延の頃(1748年〜1751年)

この頃には後の花魁のイメージに近くなる。髪は兵庫、笄、櫛、大ぶりの簪などが見える。
髱(つと)がより水平になり、襟先が男襟に似ている。
履物も、草履ではなく黒塗りの三つ歯の表付きの下駄で、後期のものより低い。

宝暦の頃(1751年〜1764年)

将軍吉宗が死去、家治の時代となるが早世する。
この頃になると髷は兵庫から島田になり、櫛・かんざしのさす数が増えてくる。

衣装も衣装全体に入る大柄な絵柄から、小さな模様を点在させるデザインに変化、シンプルな感じとなる。この時代で最高級の遊女「太夫」がなくなる。

安永の頃(1772年〜1781年)

賄賂の代名詞のようにいわれた田沼意次の時代となる。
この頃から衣装が、後期のスタイルに変化していく。

襟ぐりがぐっと後ろに出て、後の「つき襟」に近くなる。2人のかむろは、髷が奴島田に近くなり、帯が矢の字に結ぶなど後世と同じになっている。

天明の頃(1781年〜1789年)

田沼意次が失脚し、松平定信の時代になるが、世の中は天災による不幸が続く。

・・・・・天明の大飢饉、疫病の流行、浅間山の大噴火など絵の中央が当時の花魁で、髷は立兵庫に櫛を3枚、かんざしを前に5本、後ろに4本と豪華になる。
びんは「張り出し灯篭びん」で、鯨かべっ甲の髷差し棒で張りを作っている。

寛政の頃(1789年~1801年)

ぜいたく品の禁止令や私娼禁止令が出る。
相撲人気の中、小野川、谷風が横綱になる。

この頃の髷は横兵庫、丸髷、天神髷、そして島田髷と種類も豊富になる。
髪飾りがさびしい感じがするが、やはり先の禁止令の影響か?

文化の頃(1804年~1818年)

式亭三馬「浮世風呂」、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」を著す。
この頃には、芝居に出てくる揚巻の姿に近くなる。

櫛は大形2枚に、前ざし6本,後ざし8本と華やか。
髷は島田で、仕掛けは3枚、帯は本帯で両端を長く下げている。

文政の頃(1818年~1830年)

「東海道四谷怪談」上演。異国船打払い令が出る。
この絵は、「助六由縁江戸桜」の揚巻。
芝居では、揚巻は太夫だがこの姿は、呼出し昼三クラス。
ご覧のように、櫛も簪もどの時代のものより大きい。

出典:菱川師宣画「浮世続」(絵本)貞享元年