浅草寺裏、「新吉原」誕生

江戸高名会亭尽「浅草雷門前」|歌川広重
引用:国立国会図書館デジタルコレクション

江戸の急激な発展は、葭の原っぱに誕生した元吉原を中心街にしてしまいます。
当時の江戸は、おおざっぱにいうと今の東京の山手線内よりまだ狭い範囲と考えられるので、元吉原の存在は幕府にとって目障りになってきました。

明暦年間になるとたびたび所替えの話が持ち上がり、その返事を渋っていたのですが、そんな時思わぬ災害に見舞われます。
振袖火事として知られる大火事で、吉原の町も焼け野が原となってしまいます。

幕府はこれを幸いに、5割増しの土地を提供するという色を付け、所替えを承諾させるわけです。
江戸の隅っこに移されるわけですから候補の中から少しでも諸条件の良い所として選んだのが、浅草寺の裏手、今の吉原の地ということです。
以後、こちらの吉原を「新吉原」といいます。

街づくりでは、基本的には元吉原に習っているのですが、5割増分を生かし、メインストリートに揚屋を集中させ、揚屋町をつくり、客の便宜を図ります。
その後、新しい吉原も知れ渡り。万治年間ごろには大繁盛を迎えます。

そして、寛文年間、私娼取締りで検挙した私娼をこの吉原の奴女郎として収容するため伏見町、境町の2町が新しく生まれました。